90sの思い出 Vol.1

94年冬。僕は自分の過去の選択に悔いていた。

「なんで、俺の通っている高校の奴は一つの英語構文にbe動詞を2つ入れてくるんだ・・・・。」例えば、「I was born is this place.」みたいな。

過去も現在も含めちゃう。そして授業はそれを問題にもせず、進んでいく。(教師もあきらめているから)

「自宅から通うのが2番目に近い(1番近い高校は受験に落ちそうだったので妥協した結果)」という選び方が間違っていたのだろうか。いや、とても間違っている。本来、進学というものは、機能性重視ではなく、目標への架け橋的な選択をすべきである。「後悔先に立たず」である。

すべては「勉強」や「偏差値」で決まるわけではないのだが、進路の話になっても同じ高校の奴の話はある種の「あきらめ」しか感じられなかった。結構まじめに絶望していた。とりあえず、居場所がなくて図書館などに一人でいることも多かった。(このような状況を僕はブランキー・ジェット・シティの「小さな恋のメロディ」の歌詞になぞって「行くあてはないけど、ここには居たくない」症候群と呼んでいる。)

そんな中、僕の唯一の救いになったのは小遣い稼ぎにバイトしていたファミレスで出来た一つ年下の彼女(以下、N子)だった。N子の家は母子家庭だった。だからN子は生活費を補うためにバイトをしていたのだが、中堅クラスの高校に通っていた。

N子は「日大の芸術学部に行って、写真家になりたい」と言う夢を僕に話してくれた。恥ずかしい話だが、高2のこの時に初めて大学には芸術系の学部があることを知った。それと同時に「なりたい職業があって、そのために勉強したい」ということが尊くてよいなぁと思った。それくらい「夢」とかを持っている人が周りにはいない環境だった。僕はそのとき初めて大学受験をすることを決めた。

N子とはその後すぐに別れたがとても印象に残っていることがある。

親の都合で新潟の日本海沿いの町に住んでいたことがあり、小さい頃に「知らないおじさんに船に乗せてもらって、朝鮮に行ったことがあるんだよ」と言われたことがあった。聞いたときは。「あー、そう(よくわからない話だな)。」としか、思わなかったのだが、その2~3年後にニュースを観ていて、あれは「拉致の話」だったんだな。」と気がついたが、N子に連絡して聞くのも失礼な話かと重い、謎のままである。

その後に秋が来て、僕は5流の私立大学の推薦入試(「小論文」には「経済は恋愛と一緒である」といったもので提出した。教師も呆れて何も言わなかった)も一般入試もサラッと落ち、春にはやっぱり浪人生になった。

なんとなく浮かない顔をしていたのだろう。一緒に住んでいた祖父が2万をくれた。僕はその金ですぐスニーカーを買うことにした。そういえば、N子はバスケが趣味だったなぁと久々に思い出した。ただ思い出しただけ。ほしくてたまらなかった「エアジョーダン1」のレプリカを買った。とても嬉しかったが周りに受験する奴には、スニーカーにこだわっている奴が居なかったので特別自慢することもなかった。

その後N子は日芸には進まず、地元の女子短大に進んだらしい。祖父は3年前に実家の風呂でおぼれて亡くなった。

だが、エアジョーダン1はまだ僕の手元で健在である。(これより後に買ったリーボックのポンプフューリーは過水分解で壊れてしまったが。)

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※ネットから拾ってきた写真です。

余談だけど、その頃よく聞いたのはキムタクがCMに出ていたRAV4のCM曲、チャカ・カーンの「ファクト・オブ・ラブ」。